レッド・メモリアル Episode08 第7章



 アリエルは、手術台に横たわっている男から、自分自身が父親だと明かされ、動揺してい
た。
 彼女は動揺し、突然の出来事で、周囲の状況さえも現実味が感じられないほどに動揺してし
まっていた。母を救い出すためにここまでやってきた彼女だったが、突然の出来事にショックさ
え感じてしまっていた。
 アリエルはただされるがまま、手術室からシャーリによって連れだされていた。
 シャーリは何度もアリエルにショットガンの銃口を向けたてきたが、今度はただアリエルを外
へと連れ出しただけだった。
 アリエルが抵抗でもしようとしたらどうしたのだろうか?その時はシャーリも力ずくで彼女を取
り押さえただろう。
 だが、アリエルは抵抗しなかった。
 シャーリと、彼女の傍らにいる、ジュール人形のような姿をした少女、レーシーと共に、シャー
リを手術室のある待合場所のような場所に座らせた。
 そこには、アリエルがここに乗り込んで来た時に、倒したシャーリの仲間が倒れていた。待合
室にはまた別のシャーリの仲間が現れていたが、シャーリはその者達に冷たい視線を向ける
と言った。
「片付けときなさい」
 仲間の命をアリエルが奪ったと言うのに、彼女はただそう言うだけだった。
 シャーリの仲間、と言うよりも部下らしき男達は、倒れて血を流している仲間たちを、まるで物
でも扱うかのように引っ張って連れ出していった。
「あたしの仲間を殺したのね。でもいいや。どうせ、生きていても仕方のない奴らばかりなんだ
から」
 シャーリはまるで一切の感情を込めないかのような声で言ってしまった。だがそれは、今のア
リエルにとってはどうでもいいこと。
 シャーリは待合室のいすに座らされたアリエルをじっと見つめてくる。
「あなたはどうかしら?アリエル」
 と、シャーリは言って、彼女はアリエルを見下ろしてくる。
「あなたは私のお父様の、大切な娘の一人なのよ」
 シャーリにそう言われても、アリエルにとってはまるで実感がわかなかった。
 何しろ、アリエルは生まれてから今まで、父親と言う存在と出会った事が無い。シャーリは必
死にお父様、お父様と、自分の父親を慕っていたが、アリエルにとってはそのような感情は生
まれてこなかった。
 突然、父親が今で会った男だと知らされても、それは、全く実感のない出来事だったのだ。
 だが、シャーリは言葉を続けてきた。
「そしてあなたは、私と同じお父様を持っている。不思議な事だけれども、それは紛れもない事
実なの」
 アリエルの父親が、シャーリのお父様と同じ人物なのならば、それは同じ父を持っている事を
示している。
「あなたと母親は違うけれども、お父様は同じ。これがどういう事か分かる?私達は異母姉妹と
言う事なのよ」
 正にシャーリの言った通りの事だ。だが、アリエルはシャーリの顔を見上げて、彼女と自分の
血が繋がっている事を確かめ合う気にはなれなかった。
 むしろそれが嘘であって欲しい。そうとさえ思えてしまうのだ。
 シャーリが自分の母親を連れ去った張本人。そして、彼女に命の関わる何かをしようとしてい
る存在。そう思っていた事が遠い昔であるかのようにさえ感じられてしまう。
 だが依然として、自分の母親は手術室の中にいたし、そこでシャーリの命令、彼女のお父様
と呼ばれる存在の命令で何かをしようとしているのだ。
 それだけは変わっていない事だった。
「悪いけれども、あなたの母親は使わせてもらうわよ。わたしのお父様の為よ」
 と、シャーリは言った。
 アリエルは幾分か、目の前で起こっている現実を理解することができるようになっていて、彼
女の顔を見上げて話す事が出来た。
「私のお母さんを使って、一体、何をしようと言うの?」
 アリエルはシャーリと目線を合わせて尋ねた。異母姉妹だと言う事が分かっても、彼女のアリ
エルを見る視線は冷たいものである事に変わりは無かった。
 だがどうやらシャーリは、大分昔からアリエルが異母姉妹である事を知らされていたようだ。
 それなのに自分に銃口を向けてきていたのか。
 シャーリは一体、何者なんだ。アリエルの中に新たな感情が生まれてきていた。
「ねえ一体、何をするっていうの!」
 アリエルは声を上げて尋ねた。ここは病院の中だったが、今、待合室には誰もいない。医師
や受付係さえもおらず、シャーリとアリエル。そして後ろのシートに座っている少女だけだ。
 だが、感情のこもった声を上げるアリエルを落ち着かせるかのような口調でシャーリは言って
くる。
「手術をするのよ。私のお父様の命を救うためのね」
 シャーリは静かに言った。
「手術ってどんな?危険な手術なの?私のお母さんを使うって、まさか、臓器移植とか、そう言
った」
 アリエルがそう言うと、シャーリはまるで彼女の無知を笑うかのように苦笑していた。
「臓器移植ねえ。近いわ。でも臓器移植なんてものじゃあない。脳移植よ。脳の一部を移植す
るの」
 シャーリは言ってみせた。
「ちょっと!それじゃあ、私のお母さんは!脳の一部を、あなたのお父さんに提供するって言う
の?」
「ええ、そうよ」
 当然のことであるかのようにシャーリは言った。
「ふざけないで!そんな事をしたらお母さんは!」
 アリエルはシートから立ち上がって、シャーリに向かって言い放つ。だが、シャーリは、
「死ぬとは言っていないわよ。でも、危険な手術になるでしょうねえ。ただ、やる事はあなたの頭
にした事と同じなのよ。細い管を通して、脳の一部に刺激を与えると言う方法。
 でも今度はもっと太い管を使って、脳の一部を頂く事になるわ」
「そんなことしたら!」
 アリエルは医療の知識に関してはまったくなかったが、シャーリの言った言葉を容易に想像
する事は出来た。
 多分、そんな事をしたら、自分の母親はただじゃあ済まない。命を失わないまでしなくても、脳
に深刻なダメージが残ってしまうかもしれない。
 もしそんな事になってしまうのだったら、アリエルは、何としてでも手術を止めなければならな
かった。
 だが、シャーリはアリエルの前に立ちはだかり、彼女の行く手を防いだ。
「駄目よ。手術を止める事は私が許さないわ。私のお父様はね。もういつ死んでもおかしくない
の。脳の腫瘍がどんどん大きくなっていってね。あなたのお母さんの『力』が無ければ、多分、
明日までも生きられないの」
「そんな。そんな事なんて知らない!」
 と言って、手術室へと今にも飛びこんでいきそうなアリエルだったが、シャーリは彼女の腕を
掴んで言い放った。
「あなたが今手術を止めようとすれば、あなたのお母さんもただじゃあ済まないわ。そして、わ
たしのお父様。つまりあなたのお父様をも殺す事になるのよ」
 シャーリの視線が、アリエルの目をじっと見つめて言ってくる。アリエルの腕を掴むシャーリの
腕の力は強く、アリエルが振りほどこうとしても、とても振りほどく事が出来ないものだった。
「なぜ、わたしのお母さんを!臓器提供とかそういうのって、本人の同意が無ければできないも
のなんじゃないの!」
 アリエルは、医療の移植だとか脳手術など、知っている知識を総動員してそう言った。本人
が嫌がっているのに、無理矢理にしてしまう手術などどこにあると言うのだろう。そんなものは
存在しないはずだ。
 母は、ここに連れてこさせようとしている連中から逃れようとしていた。アリエルを連れ、テロリ
ストから何としてでも逃げようとしていた。
 母が、アリエルの父、つまり彼女の元夫の脳の移植の同意をしていたなどはとても思えな
い。
 だったら、様々な形で迫っていたシャーリの手下を退けたりもしないだろう。
 ミッシェルもアリエルも、無理矢理ここに連れてこられたも同然なのだ。
「もちろん。あなたのお母さんの同意なんて知った事じゃないわ。お父様の為よ。お父様の糧と
なるため、あなたのお母さんを使うの!」
 シャーリはそのように言う。だが、アリエルにはそれをとても許す事ができなかった。
 自分のお母さんを何だと思っているのだ。
「ふざけないで!そんな事!今からでも止めさせて!」
 アリエルがそこまで言った所で、突然、彼女は背後から後ろ手に両手を掴まれてしまう。
 アリエルが背後を振り向くと、そこにはジュール人形のような姿をした小さな少女がアリエル
の腕を両手で握っていた。
「だーめ。騒いじゃあ、だーめだよ」
 まるで子供が遊ぶかのような声でその少女はアリエルに言って来た。とても小さな少女が出
すことができる力だとは思えない。アリエルの手は、まるで手錠にでもかけられているかのよう
に動かす事が出来なかった。
 動きを封じられたアリエルの顔に、シャーリが顔を近づけてくる。
「そのレーシーもねえ。わたし達と同じ、お父様の異母姉妹なのよ。わたし達とは似ても似つか
ないでしょう?でも、あなたの腕を簡単に拘束することができる事からして、『能力者』である事
は良く分かるわよね?」
 と、シャーリはアリエルに、吐息さえもかかるくらいの距離で言った。彼女の隻眼となっている
目。そして、髪によって顔の半分が塞がれ、その中に隠れている傷に塞がれた目さえも覗けそ
うだった。
「『能力者』。それって」
 アリエルは腕を振りほどくため、自分の腕から、骨と皮膚を硬質化させた刃を突きださせた。
それはアリエルの意志どおりに出現して、背後で腕を掴んでいるレーシーに襲いかかろうとす
る。
 だが、刃はレーシーまで届かなかった。
「駄目だよおイタは!あなたの刃の動きから形まで、あなたの『能力』は、全てあたしの頭の中
にインプットされているんだから!ねえ。大人しくしてよ。お姉ちゃん」
 と、レーシーは言って来た。最後に言い残した、お姉ちゃんと言う言葉だけが、アリエルにとっ
ては異質に響いた。
「あなたの可愛い妹はねえ、アリエル?どんなコンピュータでも、兵器でも、体内に融合するこ
とができる『能力』を持っているの。だから、あなたの事は体の脈拍から、その刃の動きまで全
てを把握している。
 あなたの刃に関する『能力』は、あなたの脳に刺激を与えた時に、すでにアジトで解析済み
よ。それを、レーシーの頭にインプットしてあげたの。どういう事か分かる?レーシーは言って
みれば、人間コンピュータなの。だから、あなたの動きから全てに至るまで、完璧に読むことが
できる。
 あなたをアジトに連れて行ったのも、あなたに無駄な抵抗をさせないためが目的と言っても良
いわね。これでもうレーシーがいる限り、あなたはわたし達に対して、無駄な抵抗はできなくな
ったのよ」
 シャーリに説明されても、アリエルには上手く理解できなかった。腕を拘束されて、突然の父
との出会い。そして、母はこうしている間にも危険な手術をさせられている。
「そんな事って!」
「そんな事があるの。それが『能力者』って奴よ。でもねえ。レーシーなんかよりもよっぽど、あ
なたのお母さんの方が、素晴らしい『能力』を持っているみたいね?だからお父様は。あなたの
お母さんを必要としたの」
 シャーリが更にアリエルに言って来た。腕をぎりぎりと締めあげられて、アリエルは、とてもそ
れから逃れる事が出来ない。
 このままでは腕どころか体の身動き一つさえ取る事ができないようだった。
「ああ、それって酷いなあ!」
 と、レーシーは何とも気の抜けたような声を上げた。本当に子供が発するような言葉で、アリ
エルは本当に自分の背後で腕を締めあげているのが、幼い少女なのかと疑いたくなってしまっ
た。
「あなたのお母さんの『能力』の一部をお父様に移植することで、お父様はご自分の病気を治
すことができるの。それって、とっても素晴らしい事だと思わない?ねえ。アリエル。今から、見
せてあげようかしら?
 レーシー。彼女を立たせてあげて!」
 と、シャーリが言うと、レーシーはアリエルの腕を掴んだままその場から立たせた。アリエル
はよろめきながらもシートから立ち上がらされざるを得なかった。



 シートから立ち上がったアリエルは、シャーリ達の手で、手術室の中へと連れて行かれた。手
術室は、内部と外部がガラス張りによって遮られており、アリエル達は外部に入った。
 そして手術室の内部では、医師達が集中して今まさに手術を行っている真っ最中であった。
「お母さん!」
 アリエルが思わず叫んでいた。
 手術室の中ではミッシェルが手術台の上に寝かされ、その頭部に何やら管が伸びている。ホ
ースほどのチューブが伸ばされ、医師はそのチューブの先で、何やら手を細かく動かして操作
を行っていた。
「ちょ、ちょっと、お母さんに何をしているの!」
 アリエルは叫ぶ。だが、手術室の中には声は聞こえず、アリエルがいくら叫んでもそれを止
めさせる事は出来なかった。
「無駄な抵抗はしない事ね。もし今、あなたのお母さんにしている手術を途中でやめさせたら、
あなたのお母さんは死ぬわよ。もちろん、わたしのお父様も同様。そうしたら、その責任はあな
たに取ってもらう事になるわね」
 シャーリがアリエルの前に立ちはだかるようにして言って来た。
「何ですって!」
 とアリエルは言うのだが、手術室には硬い強化ガラスがはまっているらしく、レーシーの後ろ
手で掴みかかっている腕から解放されても、恐らく手術を止める事は出来ないだろう。
 レーシーに腕を掴まれ、目の前にはシャーリと硬く閉ざされた手術室がある。もし、今無理に
手術を止めようとしたら、母を殺してしまう事になりかねない。
 つまり、今、アリエルにできる事は何一つない。黙って手術室の外で手術を見守っていること
しかできないのだ。
「くっ。手術は、成功するの?お母さんは、大丈夫なの…」
 アリエルは苦虫を噛みしめるかのようにそう呟いた。
「大丈夫よ。お父様が集めた一流の医師が手術に当たっているんだから、あなたがパーにしな
ければ、手術は成功するわ」



「ここまでして、あなたのお父さんの手術をするのはなぜ?私のお母さんまで使って、しかも、
あそこまでして!」
 アリエルの脳裏には、ここ数日にシャーリ達がしてきた事が思い浮かばれる。彼女は普通で
は無かった。テロリストまがいの事を何度もしてきている。
 シャーリは、国家安全保障局の建物にも乗り込んできたし、《ボルベルブイリ》では、母の元
同僚を使ってまで自分達を捕らえようとしていたのだ。
 ただ、父親一人を救いたいだけでそこまでするだろうか?もちろん、今までのシャーリの言動
からして、彼女が父親を相当に溺愛していると言う事だけは理解できたが。
 ただそれだけのことで、人を何人も殺めたりすることができると言うのだろうか。
 シャーリはアリエルの感覚から言ってしまえば、明らかにおかしかった。
「お父様には、大切な目的があるのよ」
 シャーリは変わらぬ表情のまま、アリエルにそう言って来た。
「何?その目的って?ここまでする必要のある目的なの?」
 アリエルは依然として警戒の姿勢を見せたままシャーリに尋ねた。
「もし、お父様の力によってこの世界が変わると言ったら、あなたはお父様に協力する気になる
かしら?何が何でもお父様がやろうとしている偉業を成し遂げて差し上げたい。そういう気にな
るかしら?」
 シャーリはまるで夢想するかのような表情を見せ、アリエルに言って来た。だが、アリエルは
シャーリの言った言葉が現実のものとは思えず、彼女を凝視した。
「世界を変える?何を言っているの?あなた?」
 冗談か誇張にすぎないだろう。アリエルはそう思ったが、シャーリはその表情を変えない。む
しろ、いつも見ている彼女よりもずっと真剣なまなざしをアリエルにぶつけてきている。
 シャーリは本気なのだ。アリエルはそう思った。
「お父様は世界を変えることができるの。この病院はほんの手始めよ。この病院やお父様は自
らの財力を使って、世界を変えて行こうとしているの」
 シャーリは身ぶり手ぶりで事の壮大さを物語るかのように言った。だが、アリエルにはまった
く持って彼女の姿が信じられなかった。
 彼女がそんな思想を持っていたなんて。父親の命令で動き、世界を変えようとしていたなん
て。
「あなたは、そんなお父さんの力を使って、自分も世界を変えられると思っているの?」
「お父様にとって、私は大切なしもべ。そしてお父様はわたし達にとってみれば、絶対的な力を
持つ王よ」
 シャーリはまるで未来を見つめるかのような目をして言った。彼女の瞳には一点の曇りもな
い。彼女が信じるお父様を、全て信じてしまっているかのようだ。
「あんな事までさせられて、それでも、お父さんを信じるの。あなた?」
「当たり前じゃない。だって、わたしのお父様なんだから。あなたも、お父様のしようとしている
事を知ったら、自分からお父様の糧になろうとするわよ」
 シャーリはアリエルの方をじっと見つめて言って来た。
 だが、アリエルはそうして見つめてきたシャーリの目が恐ろしくて仕方が無かった。彼女の目
はまさしく狂信者の目そのものとなっており、他のものは何も目に入っていないかのようだっ
た。
 一点の曇りも無いかのようなシャーリの目は、狂信者だからこそできる目なのだろう。
「嫌だ。私は、あなたのお父さんに協力する事なんて、できない」
 怯えるような声をアリエルは発していた。
「わたしとしては、あんたなんかいらないんだけれどもね。お父様の命令だから、今は仲よくし
ていてあげるわよ。それと、一つ忘れないでおいて」
 シャーリはアリエルに顔を接近させて言った。
「な、何よ?」
「わたしのお父様は、わたしのお父様ってだけじゃあないのよ。あなたのお父様でもあると言う
事を忘れないで頂戴。お父様をがっかりさせないで」
 と、シャーリはアリエルに言い残す。それはアリエルにとってもまだ信じられない事だった。
 今、手術室の中で母、ミッシェルと共に寝かされ、ミッシェルと同じように頭に処置をされてい
る男が父親だなんて、アリエルには俄かに信じる事が出来なかったのだ。
「今、やっている手術を、あなたのお父さんにはできなかったの?」
 アリエルは、手術室の強化ガラスを食い入るように見つめ、シャーリに尋ねる。
「やろうとしたし、実際にやったわよ。でも、脳の腫瘍はあまりにも大きくなり過ぎていたし、お父
様の脳腫瘍は癌になって、全身を蝕んでいるの。だから、あなたのお母さんの『能力』に頼るし
かないのよ」
 シャーリは言ったが、アリエルには何の事か分からなかった。
「私のお母さんの『能力』?何、それ、私、知らない」
 するとシャーリは呆れたかのようにアリエルに言ってくるのだった。
「何、あなた、自分の母親の『能力』も知らなかったの?」



 ミッシェルに処置を行っている医師は、ほんの数ミリ程度の微細な動きをチューブから伸びて
いるワイヤーにつけ、ごくゆっくりと処置を行っていた。
 ミッシェルの頭に付けられたチューブはさらにその先で、ごく小さい穴から脳にまで伸びてい
る。
 すでに別の組織のアジトで行われていた処置によって、小さな穴はミッシェルの頭に開けられ
ていた。それをほんの少し大きくして、脳のある部分だけを摘出できるようにしただけだ。
 後は頭を開くことなく、外部からの操作によって脳に処置を施し、他の部分を傷つけないよう
に患部だけを摘出することができる。
 シャーリの父親、つまり彼らの主の脳腫瘍はあまりに拡大していたため、この方法では処置
する事が出来なかった。巨大化した脳腫瘍は脳だけではなく、彼の肉体のあらゆる部位に転
移していたため、手術はもはや不可能な状況下にあった。
 しかも現在の彼の容態ではこの手術をする事すら危険でさえある。巨大化した腫瘍にダメー
ジを与える事にもなりかねないし、更に、医師がほんの少しでも操作を誤れば、彼自身の脳に
も深刻なダメージを与えかねない。
 もはやぼろぼろになっている彼の脳や肉体には、あまりに深刻なダメージになりかねない。
 医師は脳外科医としてはベテランで、この手の手術は合法にも非合法でも数多くの経験があ
る。だからこそ雇われたのだが、
 『能力者』の脳の移植というのは、まったく持って初めてだったのだ。
 だが、今のところ医師はまったくミスをしていない。今、脳から、ミッシェルの『能力』をつかさ
どっている部分を摘出しようとしている。
 決して、他の部分には傷つけないようにし、人間が、人知を超え、未知の『力』、無限の『力』
を発揮すると言う部分だけを摘出するのだ。
 アリエル、シャーリ達が見守っている中、医師はミッシェルの脳からチューブの中へとその一
部を移す事に成功した。
 後は、これを自分達の主の脳の同じ部分に移植するだけだ。



 手術は、アリエルにとっては、何時間もかかる大手術のように思えた。目の前で母の脳の一
部が移植されていく。アリエルはそれを黙って見ていることしかできなかった。
 いつ、母に付けられた心臓の鼓動を示すモニターが音を立て、心停止を伝えるか、気が気で
はなかったのだ。
 もしかしたら手術によって母は死んでしまうかもしれない。そう思うと、アリエルはどうしようも
ない自分を抑える事ができなくなってきそうだった。
 だが、手術は実際は3時間と言う時間で終わった。これはシャーリによれば、順調に進んだ
証拠なのだそうだ。
 神経の手術など、10時間以上かかってしまう事さえある。だが、人間の最もデリケートな部
分の一つ、脳の移植と言う大手術なのに、わずか3時間で終了してしまうなんて。
 母の頭からは管が取り外され、頭に包帯を巻かれた。彼女は髪を落とす事も無く、包帯は黒
髪の間にある小さな穴を覆うように付けられた。
 手術が終わっても、アリエルは手術室に隣接した場所でかじりつくようにしていたが、やが
て、その肩にシャーリが手を載せてきた。
「終わりよ。これであなたのお母さんも助かるし、わたしのお父様も助かるの」
 と、安心させるかのような声。だが、アリエルは安心していなかった。
 心臓の高なる鼓動が感じられる。まだ、目の前で母が手術をしているような、そんな気持ちが
抜けきっていない。
 例えシャーリに安心するように言われても、とてもじゃあないが安心する事なんてできそうに
なかった。
「分からない」
 まるで独り言のようにアリエルは呟くのだった。
「分からないって、何が分からないっていうのよ?」
 攻撃的だったシャーリの口調も割と落ち着き、アリエルに言ってくる。
「何故?脳の一部を移植しただけで、本当にあなたのお父さんは腫瘍が治るの?そんな治療
法。聞いたことが無いよ」
 と、アリエルは手術中抱えていた疑問をシャーリへとぶつけた。
 アリエル達の隣の部屋では、手術を終えた男、シャーリに言わせればアリエルの父親が、ア
リエルの母、ミッシェルと同じように頭からチューブを取り外されている。
 見た所、その男の容態が回復したようには見えなかった。男もミッシェルも、本当に脳の一部
を交換などしたのか。それさえも分からない。
 ただ二人とも麻酔によって眠らされていたから、おそらく脳の一部が移動した事を意識する
事は出来なかったはずだ。
「そんな、治療法があるのよ。ただ、お父様にだけ有効で、しかもあなたのお母さんの協力が
無ければできなかったんだけれどもね」
「それが、分からないっていうの!」
 アリエルは声を上げて言った。まるで手術中の緊張の全てから解放されたかのような声で。
「何故、どうして?何故、私のお母さんを使う必要があったの?健康な人の脳だったら、ドナー
とか、何とか、色々手に入れる事が出来たでしょ?」
 と、アリエルは言うが、
「だから、あなたのお母さんの、『能力』がお父様には必要だったのよ!分かる?『能力』よ!
あなたは自分の母親の、義理の母親らしいけれども、その『能力』さえも知らないようね?
 いい?今、手術で移植した脳のほんの小さな部分は、人が『能力』を使う際に使っているほん
の一部なの」
 シャーリはアリエルに言い放ちつつ、自分の頭を指差した。
「あなたのお母さんは、病気なんかを解毒する『力』を持っているのよ。そのせいか、麻酔が全
く効かないという体質も持っているわね。だから手術は2段階あって、まずあなたのお母さんを
無理矢理気絶させて、その間に『能力』の脳の一部の活動を停止させるの。それはこの病院と
は別の施設でやらせてもらったわ」
 アリエルの脳裏に、自分達が連れ込まれた人里離れたアジトの姿が思い浮かんだ。
 シャーリは話を続ける。
「そして次の段階。その『能力』の移植よ。お父様の脳の一部にあなたのお母さんの脳の一部
を植えつければ、解毒作用が働いて、お父様の病気は治るの。全身に広がっている腫瘍だろ
うと何だろうと、たちまち癒えてしまうはずよ」
 と、シャーリは身ぶり手ぶりでアリエルに説明するのだった。
「そんな、方法で、本当にうまくいくの?私には理解できない」
 アリエルはまだ全てが理解できないと言った様子で、その場にあったベンチに座ってしまうの
だった。
 隣では手術中の時間に耐えられなくなってしまったのか、ジュール人形のような姿をしたレー
シーが寝息をたてて眠っている。
 何とも緊張感の無い姿だったが、アリエルにはその姿は目の中には入っていなかった。
「私のお父様から、あとであなたに説明して下さるわ。そうすればあなたも納得がいくはずよ」
 シャーリは今までの攻撃的な口調を崩し、アリエルの肩の上に手を乗せ、妹に言い聞かせる
姉のような口調でそう言うのだった。
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Vol.3
―Ep#.09 『キル・ボマー』―

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