コスモス・システムズ Episode03 第5章



 梓は娘のアリアと共に、灰色の巨大なバベルの塔のような、建物の目の前に車を止めてい
た。
 そのアレクサンドル・アパートを車の中から見上げて、梓はじっとその姿を見やる。これもあ
のヒメコ達が仕掛けたのか、中の様子をスキャンすることができる。お陰で、このアパートには
上層階に何人も人がいるという事が分かった。
 こんな荒廃したアパートにいる人間。素人の梓でも知っている。《ヨハネスブルグ》のサントン
地区の栄華を誇っていたビルや、高級アパートは全てマフィアが支配をしている。
 ここも例外ではない。こんなところで、本当にティッドと再会できるのかと、梓は不審に思う。
(冗談じゃあ無いわよ、ヒメコちゃん。私はもとより、アリアをこんなところに入れる気は無いわ。
ティッドが来るのをここで待つわ。できればもっと離れたところでね)
 そう梓は言う。
(誰がティッドがそこに行くっていったのよ。彼は別に国外へと逃げる予定よ。とにかくあなたと
アリアは『南アフリカ』国外に出ることを考えなきゃ)
 国外に出るですって!考えもしなかった。確かに、この国の情勢が悪化していけば、日本に
でもアメリカにでも、どこにでもいい、平和な国で暮らすつもりではいた。
 だが、それが今すぐとは思ってもいなかった。
 それでも、軍から逃げるためには、それしかないのだろう。
 アリアと言えば、不安を通り越して疲労困憊しているのか、眠りについていた。
 このまま、何の恐怖も感じないくらい、安らかに、平穏に暮らせるところこそ、子供が育つ所
のはずなのに。
 全くこの子達は何を考えている?今すぐ彼女達の居場所を知りたいくらいだ、何もかも上か
ら目線で、高みの見物とは。

 梓の憤りを、ヒメコは感じざるを得なかった。
 だが、彼女がどのような道を歩んでいたにせよ、このような状況になっていたことには間違い
ない。彼女は今、歩むべき道を歩んでいるのだ。
梓は不満だし、何より娘のアリアまで連れているという状況だが、この場は何とか頑張ってもら
うしか無い。
 頑張ってもらうしか無いなど、無責任な言葉かも知れないが、ほかになにか手があるのか。
 一方、ヒメコがもう一つ手がけている作戦の方に動きがあった。
 先ほど、大容量のデータが彼女のもとへと届けられていた。それは、かなりの容量を持って
おり、ひとつのドライブが満杯になるほどだった。
「さて、問題はこちらもどうにかしないとってことよ。こっちのデータの方、相当なものだし、大谷
さんがまずいからね」
 ヒメコはそう言うなり、ヘッドセットに表示されている別の画面、ただ音声だけの通信の方を見
やる。
 そこもまた、『南アフリカ』、それも梓と同じ《ヨハネスブルグ》に潜伏中の工作員の元だった。
「大谷さん。何をやっているのよ。さっさとそこから脱出しなさい」

 そんなまるで上から命令してくるようなヒメコの声だったが、大谷は少しの不満も感じない。な
ぜなら、彼女に従う事が最善だからだ。
 耳に囁いてくる声を。今、大谷はドレッドのアジトの使われていない部屋に身を隠し、イヤホン
よりも小さい耳の中に装着する形のイヤホン通信機で聴いていた。
 “干渉”をしている通信であり、盗聴どころか、通信や回線があるということさえ隠されている。
「予想以上に奴らは警戒しているぜ。そこら中にセンサーを設置している。まあ、何億もする取
引をしようってんだから、ヘマしないようにしているんだろうけどよ。このセンサーにまで“干渉”
できないのか?」
(それはすでに分かっているし、“干渉”をしかけようとしている最中だけれども、問題はあなた
が逃げられるかどうかよ)
 と言ってくるヒメコ。だが今はもっと大切なモノがある。自分の命と引き換えにもなるほど大切
なものだ。
「データの方は届いたか?」
 ヒメコは別の画面で展開しているデータ解析の画面を見る。
(解析中だけれども、大した暗号じゃあないから問題ないわ。わたし達の敵じゃあない)
 そのように聞こえてくる声に安心する。データは無事に届いている。それならば目的は完遂し
たということだ。
(だけれどもあなたの仕事は続行中でしょう?)
 ヒメコがまくしたててきた。その通り、大谷にはまだやらなければならないことがある。
「北村梓のところまでいけるかどうか、分からないぜ。なんせ、あのピアス野郎、相当頭にきて
いる。データを取り戻す云々の前に、俺を殺す気満々だ」
 隣の部屋の方から、荒々しく男たち、ドレッドの部下達の声が聞こえてきている。データは、ヒ
メコから渡されたデバイスでは10m以内に入らなければ、大容量の情報を、相手に気付かれ
ずに抜き取ることは出来ない。
 しかも暗号化とハッキング防止などの、防壁も突破して情報を手に入れようとしたのだ。かな
り接近する必要はある。上の階も下の階もドレッドの部下達が詰めていた。
 こうした、離れた場所からデータを抜き取るという行為は、その情報“干渉”がなかったように
偽造する技術と合わせて、当たり前のように行われてきている。情報戦はより熾烈なものとな
り、管理する側にとっては、常日頃、新たなファイヤーウォールを組み上げ、更新なければなら
ないほどになっている。
 そして、大谷のいる部屋に、ついにドレッドの部下達が踏み込んできた。
 彼らは抜身の拳銃を振り回し、わめきたてる。
「クソッ。この部屋にもいやがらねえ!」
「奴はおそらく超高性能な、ハッキングホールを持っていやがるぜ。でもデータを盗めるのは
10mってとこだ」
 “ハッキング・ホール”とは、大谷が持っている無線ハッキングができるデバイスのことだ。
「本当に、どこにもいやがらねえのか?どっか、そのへんに隠れていねえか!」
 と聞こえてくるドレッドの声、大谷は、それをすぐ近くで聞いていた。ドア越しなどではなく、同じ
部屋にいる。
「奴ら、おそらく“干渉”で、さらにステルスまで使っているぜ。本当は、いるんだ。だがな、見え
ていないだけだ」
 大谷は少し驚く。見ぬかれる事くらいは分かっているが、そこまで頭のいい連中とは思ってい
なかった。随分早く反応と対応ができるものだ。
 大谷は、今、確かにドレッドとその部下達と同じ部屋にいる。だが、彼の存在に気が付かない
のは、光のカモフラージュをしているためだ。立体映像を応用することによって、姿を隠すこと
ができるという技術は、光学画面が発達した当初からできあがった。そしてそれが今、彼の姿
をドレッド達から隠している。
 だが、いつまで持つだろうか。“干渉”をすることによって、更にステルスの状態から、どんな
探知、にもひっかからないようにする。サーモグラフィーも、光学スキャンなどからも対応する。
 こうでもしなければ、野蛮な組織の連中と取引など、できたものではない。
 ドレッド達は、今、まさに目の前に大谷がいることを知っているのか、だが、麻薬の密売だろ
うと、人身版倍だろうと何だろうと容赦なくやるこのギャングだ。さっき見せたように、自分たち
の縄張りならば、容赦なく銃を発砲する。
 大谷は、ゆっくりとその部屋から外へと出ようとした。音を立てないように、気配を感じさせな
いようにゆっくりとだ。
「くそっ。見えないんじゃあ、どうしようもねえぜ!オレたちをなめやがってよォオオ!」
 ドレッドがそのように悪態をついたときだった。注意深く音など聞いていた大谷には、その音
がすでに聞こえてきていた。
「大変ですぜ、ドレッド!」
 隣の部屋から一人の彼の部下が現れる。
「ああ、大変だろうがよ!中国人との取引の前にあいつを見つけないとよ!」
「それじゃあねえんだ!外が大変なんだ!」
 部下がそのようにまくしたてる。大谷は、彼らが焦って取り乱している隙に部屋から出ようと
動き出す。
「ああん?なんだってんだ?」
 ドレッドが言い放った。
「軍のヘリだ。このマンションを目指してきていやがるぜ。下の方には地上部隊も来ているみて
えだ!」
「ああんだって?」
 取り乱すドレッド。ここで軍が動いてくるなど、彼らにとっては予想外だったのだろう。
「ちっ。鍵つけやがったか?奴ら、ここにデータはもうねえってのによ!」
 ドレッドは、自分たちが盗み出したデータのことで、軍が着たものだとそう思っている。だがそ
れは勘違いだ。
 大谷は、何故軍がここにやってきているのかということを知っている。データを手にした今、ド
レッド達になど構っていられない。
「どうすんだ、ドレッド!軍なんだぜ」
「ここで逃げるってのか?しらばっくれるだけだろう?せいぜいムショ送り程度で住むようにな
んとかするぜ」
 ドレッドがそう叫んだ時だった。大谷は彼らに注意をしていたから、そこにこのギャングの女
がフロアに入ってきていることに気が付かず、出会い頭にぶつかってしまった。
 女は悲鳴を上げて床に倒れた。
「ちょ、何なのよ」
「どうした?部屋に入ってくるなって言ったろうが」
 ドレッドはそう叫ぶのだが、
「今、見えない何かにぶつかって…!」
 それは大谷にとって失態だった。いくら見えずとも、いくらコンピュータさえごまかせるとして
も、デジタルでしか通用しない“干渉”は、実際に触れることがあれば、その正体はバレてしま
う。
 ドレッドは、小型の消火器、それも年季の入っているスプレー式の消火器を持っていた。
 それはあくまでただの消火器のようなものだったが、“干渉”に対しては確かな効果を示すも
のだ。
 ドレッドは女の方に向けて、その消火器のスプレーを思い切り噴射する。いきなり何をするの
かと女は悲鳴を上げたが、それは“干渉”に対しては確かな効果を示した。
「いやがった!」
 ドレッドの部下が声を上げる。ドレッドの組織の女は、いきなり消火器を食らって悲鳴をあげ
ていたが、問題はそれではなく、大谷の体にも、その消火器の泡が付着してしまったことだっ
た。
 透明人間に泡が付着をするようなものとは異なり、大谷の周りに張り巡らされているのは、あ
くまでも、光学画面を応用した膜のようなものだ。
 だから消火器の泡の成分が乱反射して、奇妙な虹模様が空間に浮かび上がる。それはただ
の白い消火器の泡よりもあまりにも目立った。
 ドレッドは容赦なくと言った様子で、銃弾を撃ち込んできたが、大谷のほうが一手先を行く、
彼らの縄張りから脱出をするのだ。
「虹模様みたいなものが見えんだろ!それが奴だ!絶対に逃すんじゃあねえ!」
 そう言いながらドレッドは抜身の銃を持ったまま、部下達と共に、マンションの吹き抜け通路
へと出てきていた。
(何かやばいことになってんじゃあないの?)
 大谷の耳元でヒメコが言ってくる。その通り、やばいことになっているのだ。ヒメコの方も常に
監視をしているから分かっているはず。
「何とか逃げないとまずい。それに軍が迫ってきている。おそらく、これはドレッドの奴らを狙っ
ているんじゃあない、北村梓の方だ」
 そうヒメコに向かって通信する大谷
(ええ、今下まで来ているの)
 やれやれと大谷は思う。ここから逃げ出すことと、北村梓を助けだすことの二つをやらなきゃ
あいけないということだった。

(ちょっと、何だか騒がしいわよ。いつまでここで待たせるの!)
 ヒメコの耳に響いてきたのは、今度は梓からの声だった。梓は今、大谷が逃げまわっている
マンションの下にいて、彼と合流する手はずだったが、この状況下、軍まで迫ってきている。
 “干渉”で姿を消すという技術自体はそれほど難しいものではないのだが、さっき、あの野蛮
なマフィアのボスがやったように、見破ることも簡単に出来てしまえるのだ。
「まあ、待っていなさいって。と思ったけれども、これはまずいわね」
 ヒメコはいくつかの画面を素早く見た後にそう言った。
(一体何なのよ)
 とすぐに跳ね返ってくるような梓の声。
「軍が来たわ。まあ、近づいてきていたことは知っていたけれども、大谷さんが予想以上に時
間がかかっているからよ」
 ヒメコは自分でも子供が駄々をこねるような声だという事は分かっていたが、そうした口調を
出してしまう。
(じゃあどうするの?正直、私はここで捕まってもいいって思っているくらいかもよ)
 そう言ってくる梓。娘もその場にいる以上、軍に捕まった方が幸せなのかもしれない。しかし
ながら、梓が軍に捕まり、その素性を知られるわけにはいかない。
 彼女が全身を機械化された人間だからというわけではない。
「逃げてもらうわ。《ヨハネスブルグ》のその辺りの地形図ならわたし達の方が詳しい」
 梓にすぐさま命令を下す。しかし、いつまで持つか。大谷とも合流をしなければならないの
だ。

 梓は自分の目の前に展開をした光学画面を見やり、ヒメコが何を考えているのかという事を
確認する。地下からか、地上からか。どこから逃げるのか。
 そして自分たちが合流する人物とは何者なのだ?
「ママ。どうするの?」
 画面を見回している梓に向かって言ってくるアリア。娘を連れてどこまで逃げられるのか。
 自分一人なら何とかなるかもしれない。だが、アリアを連れてこれ以上は。
 梓はあることを考えつつあった。

「ここは、ドレッド・ファミリーのマンションだぜ。一体北村梓は何を考えてやがんだ?オレ達か
ら身を隠すために、ギャング共に手を借りる、とかか?」
 そうS-300と呼ばれる男は、サングラスを上げて、そびえ立っているアレクサンドリア・アパー
トを見やる。廃墟の塔の階上はスモッグに霞んでいる。
 その時、電話がかかってきて、S-400と呼ばれている方の女は電話に答える。
 アーサーがその画面に出てくる。
(今、《プレトリア》についた。こちらからいっても、30分はかかる。お前達だけで何とかしろ。S-
200の眼を頼りにしてな。あと、《ヨハネスブルグ》の部隊は私の命令で動かす。勝手に使うな
よ)
 教師が教え子に忠告をするかのようにそう言ってきた。
「ええ、わかったわ」
 S-400は答える。彼女らはすでに、S-200とアーサーらが呼んでいる人物と連絡を取り合って
いた。
 耳の中にある通信機だけで通信する。
(どういうわけか、そのアパートで、“ハッキング・ホール”が使われていた。おそらく北村梓は、
誰かと合流するつもりでそこまで来ている。そのまま身を隠すつもりで動き、バックで動いてい
る連中がいる)
 無機質な声、女なのか少年なのか分からない中性的な声がする。S-300達も同じ組織に属し
ている者同士として、顔くらい知っているが、女っ気のない女だ。年は同じくらいだが、金髪で
サングラスをかけているS-400よりもずっと無機質な女だ。
「全くわけがわからなくなってきたわね。どこの奴らが支援しているのよ」
 毒づくように言ったS-400。
「とにかく相手が誰であれ、北村梓を捕らえればそれでおしまいだ。ドレッド・ファミリーが動こう
が、軍の前じゃあ何も出来ないぜ」
 そう言うなり、S-300は車から降り、アパートの方へと向かった。ついで、彼らのいる車の側に
軍のジープが何台もやって来ていた。
 軍は軍で動いている。S-300らとは行動を共にしているが、別々の組織の者としてだ。
 S-300は、堂々とアレクサンドリア・アパートへと近づいていく。

「これが、北村梓が乗ってきた車か。一体、奴らはどこへといった?」
 薄汚れたセダン車の中を覗き、S-300は言った。外見こそ埃をかぶっていて、40年くらいは走
っていそうな車だったが、内装はきちんとシートカバーが張り替えられており、そして、光学画
面が展開していた。これはナビシステムだ。
 おそらく北村梓が乗っていた。だが、今はがらんとしており誰もいない。
「目的地がこのマンションの前になっているわ。ということは、やはりここが目的地?一体何の
ため?」
 と、S-400は、車の中を覗いて言うのだった。
 周囲では慌ただしく軍人たちが捜索を開始している。たかが一人の女、もしくはその娘を探し
ている。それだけなのにマシンガンを持って重武装だ。《ヨハネスブルグ》で軍を展開するため
には、そのくらいの武装は必要だろうか。
「マンションの中を捜索しろ、そこらの建物の中、全てをだ。すぐに包囲網をしけ!」
 部隊があっという間に都市の中に展開していく。暴動鎮圧などで、『南アフリカ共和国軍』は
慣れている。だが、一人の女を捜索するということはどうだろうか。
 軍はその人数で捜索をしようとしている。だが、S-300達は違う。わざわざアーサーに派遣さ
れたための理由がある。
 S-300は通信をしっぱなしの相手に尋ねる。
「どこにいった?ずっと見ているんだろ?」
 通信先の相手、S-200と呼ばれる女は、ずっとこのマンション周辺を監視している。北村梓は
それに気づいてさえいないだろう。
 何しろS-300達には、彼女がどこに潜んでいるのかということさえ知らないのだ。
(ええ、右奥の建物へ入っていったわ。娘を連れてね。今三階まで登っている。どうやら、建物
伝いに逃げるつもり。その辺り、建物が複雑になってるから気をつけなよ)
 そうそっけない声が聞こえてきた。まあこの女はくどく気にはなれないなと思いつつ、自分た
ちが向かうべき建物をみやる。
「オレ達は、集団行動は苦手だからな。二人だけでいくぜ。匂いは覚えているな?いくぜ」
 すぐに行動に移ろうとするS-300をS-200が通信で呼び止めた。
(それともう一つ。そこのアレクサンドルアパートだけど、ギャングたちが誰かを追っている。双
眼鏡でも見えないけど、追われているのは一人の男。“干渉”によって姿をくらましているけど、
わたしの前じゃあ意味なし)
「ただの抗争とかじゃあねえな。もしかしたら北村梓と関係がある。そっちも動きをしっかりと見
ておけよ」
 S-300はそう言い放つなり、S-400と共にマンションの方へと向かった。

 再び追われている梓。彼女はアリアの手を引いていた。一体この逃避行はいつまで続く?ア
リアは頭がいいが、体力は所詮子供でしかない。
「どんどん奥地に入っていくわよ。それにアリアもそろそろ限界なのよ」
 ところどころに埃がまみれている、木製の階段の踊り場で梓は立ち止まっていた。アリアはす
でに息を切らしていた。
(ええ、分かっているわよ。無理ないわね)
 とヒメコが言った。まるで他人ごとであるかのように喋ってくる。この娘はまだアリアと同じくら
いの年頃か。一度に幾つもの事を考えて、そして判断をしているように思える。
 一つのことに集中ができれば優秀だが、いくつものものに頭を回すと、時に判断が鈍る。頭
がいいゆえに陥ることだ。
 その辺り、どこかアリアに似ている。ただ、性格までは似ていないようだが。
「あなた、何か別の事を同時にしているの?私達に集中してくれないの?」
(分かっているわよ。指示を出しているのはもう一人いる。あんたたちに合流させようとしている
人よ)
「仲間はいないの?あんたは?」
(そんなことより、そこで立ち止まっていたら、下から来る奴らに捕まるわよ)
 すぐに話をそらすヒメコ。確かにアパートの下の方から、足音が聞こえてくる。窓の外には大
勢の軍の部隊が展開していたが、下から来るのは数人程度だ。
(窓とベランダ伝いにニブロック先まで逃げられる。抜けた先で合流させるから)
「その後はどうするのよ?」
 振り回されっぱなしの梓は言い放つ。
 だがすでに素早くアパートのベランダに出ていた。
「もう限界だよ、ママ。これ以上、走れない」
 その場に座り込んでしまってアリアは言ってきた。確かにその通りだ。ここまでは車でやって
きていたとはいえ、生まれ育ったところから遠い街まで何日もかけてやってきていて、その間、
休みもろくにとっていない。まだ幼い体には苦痛だ。
「もうアリアを連れて逃げるのは限界よ」
 娘を気遣い、梓はそのように言い放つ。これ以上はもう逃げまわることなどできようはずもな
い。
(仕方ないわね。元々、アリアが一緒に来る予定は無かったんだから。今、保護させるしかない
わ)
 と、ヒメコはしかたがないことを言うように言ってくるのだが、
「あんた達の都合なんて知らないわよ。娘を連れて振り回されるのはごめんよ」
(じゃあ仕方ない、娘を連れていなければいいのね?)
 その後、ヒメコはあることを、梓に言ってきた。
(アリアがあなたと一緒にいても軍は容赦しない。それはあなた一人でも同じこと。でもアリアの
ことを気にかけるのならば、彼女は軍に保護してもらえばいい)
 その言葉に梓は憤慨する。
「ふざけんじゃあないわよ。逃げろって言ったのはあんた達でしょうが。それも、軍に預けたら、
私の居所を聞き出すために何をされるか!」
(心配しないで、人質に出すってわけじゃあないわ。それに軍にはやり手の弁護士を送るから
大丈夫だし、アリアだけでも、旦那さんと再会できるわよ。そう手回しをする)
 ヒメコは答えた。この頭の中に響いてくる声。はっきりとした意志を持っている。少なくとも嘘
は言っていない。この子供が何をこの先に考えているのかはさっぱりと分からないものだった
が、アリアがこれ以上、ついてこれないのは、確かだった。
 梓は目を閉じた。自分が何者であろうと、このアリアだけは絶対に守る。それはずっと前から
自分に言い聞かせてきたことだ。
(いい?アリアに何かあったら、あなたが子供であろうと殺しに行くわよ)
 ヒメコに、頭の中から通信で言い放つ。とても、アリアには聞かせられない言葉だ。
(ええ、そうすればいいわ)
 そして、梓はすぐ傍らにいるアリアの前にしゃがみ、息を切らせ、目が泳いでいる彼女に向か
って話しかけるのだった。
「いい、ママは少し遠くへ行かなければならないけれども、すぐにまた会えるわ。それまでパパ
と待っていて」
 アリアにじっと言い聞かせる梓。アリアはまだ目を泳がせてしまって不安そうだった。
「それって、本当なの?」
 そう絞りだすかのような声でアリアは言ってくる。
「ママが嘘をついたことある?」
「ないわ」
「じゃあ、心配することはないわね。あなたは心配しないで、そして、決してわがままいっちゃあ
駄目よ。誰が相手であろうとね」
 念を押すように、我が子に言い聞かせた梓。だが、アリアはまだきょとんとした様子で、信じら
れないといった顔をしてくる。
 彼女は廃屋のようなマンションの窓に足をかけ、錆びついた鉄でできたようなベランダへと向
かった。
「おい、いたぜ。北村梓だ」
 一方、アパートの下層階から階段を上がり、現れる妙な風貌の男女。サングラスをかけ、ラフ
な格好をした二人は、異質だった。だがそれが梓の追っ手であることは、彼女にはすぐに分か
った。
「ママ、どこへ行くの?ママ」
 ベランダから外へと出て行ってしまう梓。この行為が、彼女の心をどれだけえぐるかのような
気持ちにさせるか。今まで我が子と別れたことのない梓にとっては、初めて感じる、心がえぐら
れるような気持ちだった。
 ベランダへと飛び出し逃走する梓。まだ、自分の下した決断が間違っているのではないかと
考えていた。
 アリアをたった一人、彼女の見知らぬ街に置き去りにしてしまったのだ。
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