レッド・メモリアル Episode06 第3章



チェルノ記念病院
9:08 A.M.



 その男は、医療器具に繋がれていたが、それだけが、男を拘束している全てではなかった。
男は自分の体の中にある、病によって拘束されていた。
 病院のベッドの上で、力なく、だらりと伸びた手足はすでに痩せ細ってきており、使い物にもな
らない。まるで老人のようだった。
 若い時は、体も大柄で、体躯も頑丈だった。そのため、身長は2メートルを越し、今もそれだ
けの身長があったのだが、結局、若木が枯れて痩せ細り、朽ちていくように、養分が消えうせ
た枝のような手足でしかない。
 だが脳だけは、男の脳だけは活動を続けていた。まるで老人のような顔をした男だったが、
脳だけは普通の人間と同じように活動を続けている。
 むしろ、ベッドの上からほとんど動く事が出来ない男の脳は、普通の人間の何倍もその活動
を活性化していたようだった。
 医療器具に繋がれていようと、男は絶大な力があった。肉体から出される力ではない。一人
の人間ではどうしようもない。権力としての力だった。
「お薬の時間です」
 この病院で自分の身辺の世話をさせている、秘書の男が姿を見せ、紙コップと皿に乗せられ
ている薬を持ってくる。
 手は動かすことができるから、医療ベッドのテーブルの上に置かれたそれを飲むことはでき
る。
「以前も聞いたとは思うが、この薬で、どのくらいの時間、持たせる事ができる?」
 掠れた声でベッドの上の男は言った。すると、秘書の男は相手に刺激を与えまいと配慮しな
がらか、言葉を選ぶかのように話し出した。
「あなた様の御病気は、悪性の脳腫瘍です。それもかなり進行してから発見されたものですの
で、治療方法は民間の医療機関ではございません。その薬はあくまで、脳の活性化をさせるも
のであって、あなたの病気を治療できたり、進行を遅らせる事が出来るものではないのです」
「分かっておらんな」
 秘書に対して、男は呟くような声で言った。
「具体的に、どれほどの時間を持たせられるのか、と聞いたのだ」
 苛立ったようにベッドの上の男が言ったため、秘書は少し面食らったようだった。すぐに秘書
は言いなおす。
「1か月も不可能でしょう。1週間。もって10日か」
「そうか」
 そんな現実を知らされても、ベッドの上の男は、特に表情を変えなかった。
 死を前にしても、何も恐怖を感じていないかのようにも見えた。
「あちらの方はいかがいたしましょうか? お嬢様から何度も連絡が入っておりますが」
「ああ、分かっている。すぐに、電話を回せ」
 とそれだけ言って、男はベッドの上に身を埋めた。
 男には権力があった。たとえ残り10日も自分に時間が残されていなくても、権力さえ使う事
が出来れば、自分が生涯かけて追い求めてきたものを手に入れる事が出来る。
 その一つが、この病院だった。
 皮肉な事に、男は、自分が設立させた病院に、自ら入院し、延命治療を受けている。延命さ
せなければ、目的に達することができず、病によって死んでしまうからだ。
 男は、ベッドの上のテーブルに置かれた、イヤホンを手にした。
 それは携帯電話機で、病院内のこの部屋に設置された交換器を通じて、無線連絡をするこ
とができるようになっている。
 男は震える手でそのイヤホンを耳に装着した。
「シャーリよ。ミッシェルを捕らえたと聞いたが」
 イヤホンで通話が始まるなり、ベッドの上の男は話し出した。
(はい、お父様。今、こちらにいます)
「ほう。よくやった。だが、本当に彼女が必要かどうかをはっきりと分からないままに、手をつけ
るわけにはいかないからな、きちんと検査をしておけ」
(はい。それはこれから行いますが、少々面倒な事になってしまいました)
 電話先で娘の声が少し動揺している。彼女は自分の父親と話す事に、多少の緊張を感じて
いるようだった。
「それは何だ?」
 ベッドの上にいる男は、そんな娘を動揺させまいと、静かな声で言った。
(ミッシェルの娘である、アリエルが、この施設に侵入したようなのです。おそらく母を追って、で
しょう。どうなさいますか?)
「一緒に捕えるんだ」
 ベッドの上にいる男は、感情を込めない声でそうつぶやいた。
(ですが、お父様の計画を聞く限り、アリエルは私達の計画に不要なばかりか、逆に障害にし
かならないと思います)
 と、シャーリは言ってくる。だが、男は、語気を強めて彼女に言った。
「何故、お前がそんな事を決めるのだ?シャーリよ」
 すると、シャーリは、少しの間をおいた。多分、男が語気を強めたことで少し面食らっている
のだろう。
(いえ、ただ)
 シャーリは電話先で戸惑っている。
「お前は、私の計画をどこまで知っているというのだ?私には、私の目的がある。お前はわが
娘としてそれに従っていればそれで良い。
 私はミッシェルと共にアリエルも必要としている。それだけだ」
 はっきりとした口調で男は言った。彼自身が病人で末期症状にあるという事を忘れさせるほ
どに。
(はい。分かりました。お父様)
 と、シャーリは答えてくる。幾分か、動揺は収まっているようだった。
「医者の話によれば、私はもう長くない。10日も持たないと言われている。だから、計画の限ら
れた時間はもう1週間ほどと考えて良いだろう。」
(お、お父様)
 シャーリは、電話先で思わずそう呟いていた。愛しの娘が、悲しみにくれている。そう感じる
と、自分まで涙が流れてきそうだった。
 今、語気を強めたことさえ、後悔しそうになった。娘が離れて行ってしまう感覚を少しばかり感
じた。
 だが、この娘はまだ若い。幼いとさえ言っても良いだろう。もしもの時は、この娘が全てを引っ
張らなければならない。
 だから時として非情な形で接しなければならない事もあるのだ。
「私の事はかまうな。シャーリよ。仕方がないことだし、お前も覚悟を決めていたはずだ。すべ
ては計画通りに運べばそれで良い。私も安心して死んでいける」
 と、男は言う。
 するとシャーリは、
(わたしも、お父様の身を案じています。いつもいつも、これからも)
 まるで泣きそうな声で答えてくるではないか。男はもう電話を切らなければならなかった。だ
が、シャーリがまるで電話を切らせまいとしているかのようだ。
 そんな感情がはっきりと伝わってくる。
「すまんが、もう電話を切る。また連絡するから、な」
 シャーリは何も言ってこなかったが、男はそこで電話を切った。
 イヤホン状の通話装置を、ベッドの上のテーブルに置く。今はこれだけが、親子をつなぐ唯一
の道具だった。
 あと10日。それまで自分の命が持ってくれれば良いのだが。
 男はそう思い、イヤホンを自分の耳から取り外した。
 だが、あの親子さえいれば、10日しかない自分の命も、受け入れるようになれるだろう。あ
の親子が、自分の元に来るまでの辛抱なのだ。



 シャーリは耳にしていた通話装置を取り外すと、それを胸元で強く抱きしめた。
 お父様の命がもう残りわずかしかないという事が、電話越しにもはっきりと彼女には分かった
のだ。
 前々から命が危ういという事は知っていたが、それは着実に進行してきている。まるで蝋燭
の灯が消えうせて行くかのように、お父様の命が失われていこうとしている事が、はっきりと分
かる。
 だが、病気に関しては、自分にとってはどうしようもない。お父様の邪魔をする者だったら、幾
らでもショットガンでバラバラにしてやれるが、病気だけは本当にどうしようもないのだ。
 シャーリは涙を流している自分に気がついた。
「シャーリ様、あの」
 背後から話しかけてくる声。シャーリははっとして背後を振り向いた。
「何よ!」
 背後には白衣を着て、医者の姿をした男が立っている。自分達の仲間だった。
「これから、テストを行います。あの者が、本当に適合するかどうか、チェックを行い、それか
ら」
「ええ、分かっているわよ。お父様に“適合”するかどうか、きちんとチェックしなさい。手術をし
てからじゃあ遅いんだから!」
 と、シャーリは言い放つ。医者の方は恐れをなしたかのようにその場から立ち去って、奥の部
屋へと入っていった。
 ここは、森の中の木々によって、衛星から隠された、倉庫のような施設だった。周囲には部
下達を配備しており、一部の隙も見せないようにしている。
 そして、倉庫のようなこの建物の最も奥には、さながら手術室のように隔離された部屋があっ
た。
 扉は厳重に閉ざされ、のぞき窓からしか中を覗く事は出来ないようになっている。
 お父様の元に、まだあの女を連れて行くには早すぎる。それに、あの女の娘も追いかけて来
ている状況では、お父様のいる病院にあの女をそのまま連れていくわけにはいかないだろう。



 アリエルは、テロリスト達が持ってきていた無線機を手にして、森の奥へと進んでいった。獣
道しかなかったが、車が通れるほどの道幅は確かにある。この道を進んでいけば、たぶん、シ
ャーリ達に出会うだろう。
 無線機からは、ひっきりなしにテロリスト達が連絡を取り合っている事が伺える。
 どうも敷地はかなり広いらしく、この森の中の広範囲に建物が散らばっているようだった。
 道を進んで行って、果たして母を連れ去った、シャーリ達に出会う事ができるだろうか?
 やがてアリエルは、森の中に設けられた倉庫を見つけた。
 針葉樹林が広がっている中で、その森はどことなく、無機質な印象だった。多分、街を歩け
ば、そんな倉庫など幾らでも見かける事が出来るのだろうけれども、この森の中にある倉庫の
姿は、あまりに異質だった。
 倉庫の外には、ジープが2台止まっていて、マシンガンをもった見張りが3人いる。この入口
の扉の前に立っていて、まったく油断もない様子だった。
 多分、今の自分だったら、マシンガンを持った相手だって戦って、倒すことができる。アリエル
にはそうした確信があった。
 だが、同時に中にいるかもしれない、母の命をも危険にさらすことになるかもしれない。それ
にあの母も、シャーリ達に捕まってしまったのだ。
 シャーリがどんな『力』を秘めているのかも分かったものじゃあない。多分、テロリストの中に
は『能力者』とかいう存在も他にいるんだろう。どうしたら良いのか、アリエルにはさっぱり分か
らなかった。



 検査が始まった。手術室の扉の窓から中を覗き込んでいるシャーリは、ミッシェルに対しての
検査が進むのを見守っていた。
 いくらこのテロリスト達を取り仕切る事が出来る立場にあろうと、シャーリにとって医学の事は
分からない。
 そもそも、医学で『能力者』の事を解明していこうなど、シャーリにとっては無謀としか思えな
かった。
 手術台の上に寝かされているミッシェル。手術をするわけではないから服は着せられたまま
だが、彼女の腕からは採血が行われ、血圧計や、脳波なども測られている。
 ベッドの上にいる50代の女は、シャーリが大分前に会った時よりもずっと年老いてきてい
た。あちらは、シャーリのあまりの変貌ぶりに気がつかなかったのだろう。さっき、真正面から
対峙した時も、ミッシェルはシャーリの事に気がつかなかった。
 小学生の時、アリエルと一緒に遊んでいた、あのシャーリなどと、一体誰が想像がつくという
のだろう。
 しかし、あの時の自分はもうここにはいない。わたしは目覚めたのだと、シャーリは自分に言
い聞かせた。
 そう。例え、あのミッシェルおばさんにこれから何が行われようとも、シャーリはそれに対して
何も口出しをしないし邪魔をしない。むしろお父様のために全力で対処しなければならないの
だ。
 と、その時、シャーリ達テロリストのいる倉庫の扉が正面から突然開かれた。
 開かれた扉の向こうに一人の女が立っている。
「シャーリ!」
 そう倉庫内に響き渡る声で言い放ってきたのはアリエルだった。
 アリエルの姿を見て、シャーリの部下達は、一斉に彼女に向けて銃を構えた。アリエルは息
を切らしており、そのグローブをはめた手を血に染めていた。
 両腕からは彼女の『能力』の証である、ブレードが出ており、その刃も血で染まっている。どう
やら外の見張りはその刃の手にかかって倒されたようだぞ、と。シャーリはすぐに判断した。
 アリエルは息を切らせている。彼女自身は特に怪我も何もしていないようだが、なぜ彼女が
息を切らせているのか、シャーリにはすぐに分かった。
「あら、アリエル。一体何の用なの?今更」
 アリエルが倉庫に入ってこようとこまいと、シャーリにとってはどうでも良かった。
「どうします?始末しますか?」
 倉庫の中にいて、アリエルに銃を向けている部下の一人がシャーリに尋ねてきた。だが、シ
ャーリは、
「駄目よ。お父様の命令があるのよ!」
 倉庫に響き渡る声でそのように言い放つ。部下達は銃を構えたままだったが、もうアリエルに
手を出す事は出来ない。
「お母さんを返して!私のお母さんを返しなさいよ!」
 アリエルが倉庫に響き渡る声で言ってきた。アリエルは温厚な性格で、滅多なことでも激高し
ない。喧嘩をしているときだって、まるで楽しんでいるかのような笑顔を見せているような子だ。
 だが今のアリエルは違った。
「そこなの?そこの扉の向こうにいるの?私のお母さんは?」
 とアリエルは言ってくる。やれやれとシャーリは思った。うんざりするぐらい“私のお母さん”っ
て言う子なんだな、と彼女は思う。
「やれやれねぇ。アリエル。あなた、欲張り過ぎよ、全く」
 自分の方へと、堂々と進んでくるアリエルを見て、シャーリは思わず呟いていた。
「何がよ」
 と、アリエル。
「私のお母さんですって?私にはお父様しかいない!どっちも手に入れようなんて、あなたは欲
張り過ぎなんだよ!」
 シャーリは自分の語気を荒立たせ、さらに、目を見開いてアリエルに言い放った。同時にショ
ットガンの銃口を彼女へと向ける。
「訳分からない事言わないで!私にはお母さんしかいない!あなたはそれを奪おうとしてい
る!それに、私はあなたと争いたくない。戦いたくない!お願いだからお母さんを返してよ!」
 そんなショットガンの銃口など恐れもせず、アリエルはシャーリに迫った。
 だが、
「何も知らないクセして、いい度胸じゃあなぁい?でも、わたしと戦いたくないっていうのは同感
よ。今、わたしは、あなたみたいなガキと遊んでいる暇はないの。レーシー!」
 そう言い放ったシャーリと、アリエルの元へと、素早く飛び込んでくる者の姿があった。
 それは、小さな子供だった。
 ちょうど、童話にでも出てきそうな姿をした少女。その趣は、さながらジュール人形のような姿
をしている。
 テロリストだらけのアジト。武器を皆が構えている場所においては、その姿はあまりに異質で
さえあった。
「いいんでしょ?シャーリ、やっちゃっていいんでしょ?」
 アリエルの方へと、低い姿勢から楽しむかのような表情を向け、彼女は言っていた。まるで、
この場を楽しんでいるかのように。
 シャーリは、そんな彼女の背後から、決して忘れてはならない言葉を投げかけた。
「ええ、そうよ。でも、壊すっていうのは無し。この子は絶対に壊しちゃあ駄目よ」
 そうシャーリは言うのだった。
「って、言う事なら、話は早いんじゃあない?」
 と、言い放ちつつ、レーシーは、アリエルに向かって回転しながら蹴りを放った。
 とても、小さな少女が出したとは思えぬような、鋭く、しかも強烈な蹴りだった。アリエルがそ
の蹴りを避けなければ、その場でノックアウトされていただろう。
「な、何よ、あなたは」
 アリエルは、目先の母の救出が先立って、レーシーが間に入った事に対して焦っている。
「レーシー。こいつをこの建物から追い出して。でも、逃がしちゃあ駄目よ。ちゃんと後で連れて
来なさいよ」
 シャーリはそれだけ言うと、再び、倉庫の奥の手術室の中へと目を向けた。アリエルが入って
きた事で物音がしたらしく、こちらの方を向いて来ている医師がいたが、シャーリは窓から、そ
の医師に対してうなずいた。
 すると、倉庫の中から追い出されていくアリエルなどはよそにして、手術室内でミッシェルの
検査が始まるのだった。
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